「自分を必要とする会社はある」


「働きたい」。大手機械メーカーを辞めた田中鼎さんは退職後、つくづくそう思った。まだ56歳。体力も気力も十分ある。「このままで、食べていけないわけじゃない。でも、会社から疎外されたようでたまらない」

北海道小樽市から上京して大学に通い、「転勤がなさそうだ」と思って就職した。1967年4月に入社してから3年後、「栃木県大田原市に主力工場を設立する。加わってほしい」と上司に言われ、新婚の妻、登美子さんと一緒に転居した。
 大田原工場では、部品の発注から倉庫管理までを手掛ける生産管理部門を担当。納品が遅れそうな部品を、夜中に羽田空港まで取りに行ったこともある。

 腰痛に苦しむ従業員のため、自動的に部品を出し入れできる倉庫の導入にも奔走。
 コンピューター歴が長いため、IT(情報技術)化を進める部署にも派遣された。実務経験とTIノウハウを持つ人材として着実に評価されていった。
 
 55歳の時、一念発起し、管理職向けOA研修を提案した。IT化が進む中、会社は全社員にパソコンを配布したが、管理職の年代は使いこなせず、覚えの速い部下との間に摩擦が生じることもあった。「同じ年代の自分が支援すれば、うまくいくはず。定年までの5年間、自分の力をこの仕事に注ごう」と思った。だが、その夢は、わずか1年後に消えた。

 退職後は自分奮い立たせるため、ITの国家資格「システムアドミニスター」取得を目指した。
図書館通いを始めたが、働いていた工場の前を通れず、回り道した。働く人へのうらやましさと、やり遂げられなかっ た仕事への未練で胸が苦しくなった。でも「自分を必要とする会社は絶対にある。」そう思い続けた。
00年2月、同僚だった友人が自宅を訪ねてきた。「こんな会社ができる。社長に会ってみたら」。差し出されたビラを見た。「高齢者を生かす会社」という。心をくすぐる何かがあった。


つづく


こちらの記事は2004年3月31日に毎日新聞に掲載されたものです。(転載許可済み)